『逃げずに、負けずに』
四月五日、午後十一時。
何が正しいのか。
俺は家に帰ってからそれを悩んでいた。
ベッドに横になり、天井を見上げる。
今日あった出来事は、ドラマのようで、そうでない。
本当にあったことなのだ。
「……助けるべきなのか、そうでないか……本当の正しさは、どっちだ?」
わからない。
何が正しいかなんて、今の俺には全くわからない。
沙里の記憶を取り戻してあげるべきなのか。
しかし、取り戻せば彼女には辛い現実というものが待ち構えている。
どっちが彼女のためになるのか。
「――わからん!」
俺は考えることをやめ、ベッドの毛布の中へと潜り込んだ。
案外眠気が多かったのですぐに寝れた。
悲しい、青い色。
そんな悲しい色が、俺の目の前に広がる。
――何なんだ? これは、一体……
少しずつ聞こえてくる、誰かの泣く声。
とても悲しそうな、そして何かを堪えるような、そんな泣き声。
「私が、私が……」
どこかで聞いたことのあるような声だ。
俺は、その声の主が誰であるかすぐにわかった。
「私のせい……っ! みんな、私のせいなんだ……」
この悲しみを堪えたような震えた声。以前にも聞いたことがあったので、すぐにわかるこ
とが出来た。
――利緒なのか……? この声の主は……
けれど、確信はできない。
聞こえるのは声だけだ。
「私が、私の大切なものを傷付ける……そんなの、嫌……私が一体何をしたって言うの?
私はここに存在しちゃいけないの!? 私がいるから、みんな傷付くの!?」
怒りにもにた声が、辺りに響き渡る。
俺はただ、黙って聞くことしか出来ない。
なぜなら、これもまた、『聞かされている夢』だからだ。
――誰かが、俺に夢を見させているのか……? まさか、な。
と、心の中で否定はしてみたものの、やっぱりそんなことはありえない。
何かのゲームやマンガの話じゃあるまいし、そんな都合のいいことなんてあるわけない。
けれど、何か違う。
普通の夢と、何かが……
「お父さんも、吉久も、お母さんも……みんな私が殺したんだっ」
――!?
思いもよらない言葉が聞こえる。
吉久、ということは利緒の弟だったはず。なので、この声の主は確実に利緒だと言える。
だが、さっきの言葉に変な違和感を覚えた。
――お母さんも、だと?
母親はちゃんと生きているはずだ。
何があったというのだ、利緒に一体……
ただ聞かされている自分が腹立たしくてしかたがない。
「なら、きっと竜芳たちも傷つけてしまう……竜芳だけには、嫌われたくない」
ジリリリリッ。
意識が夢から一瞬で現実へと戻される。
しかし、まだ意識が朦朧としているので何がなっているのかもよくわからないまま、目を
開けて辺りを見渡した。
なり続ける目覚まし時計に気づいた俺は、すぐに音を止めるべくスイッチを押した。
「ふぁ〜っ」
眠い……
四月六日。午前十時。
朝飯を食べて、顔を洗って、歯を磨く。
そのおかげで目もすっかり覚めて意識もはっきりしてきた。
なので今日しなければいけないことを思い出す。
……………
朝っぱらから、暗いテンションにさせられるような内容だったことを忘れていた。
沙里のこと。
悩んでいたって仕方がないから、俺はひとまず昨日のように沙里の家へと向かった。
嫌な予感を胸に抱きつつ、俺は家を飛び出した。
静まり返った沙里の家。
門を開けて家の玄関へ入ると、執事の情秀さんが立っていた。
「おはようございます、竜芳殿」
「おはようございます。沙里の調子はどうですか?」
「昨日、あれから何とかして自分の名前だけはと思い、覚えさせました」
覚えさせました――思い出させたんじゃない。
昨日から自体は全く進展していないらしい。
と、そのとき二階から走る音が聞こえた。
「邦乃ちゃん!!」
沙里は俺を見つけるなり、別の人の名前を言って階段を走って駆け下りてきた。
っていうか、まだ俺はその名前で呼ばれなきゃいけないのか。
「なんで昨日すぐに戻ってくるって言ったのに帰っちゃったの? 沙里、ちゃんと待って
たのに、どんなに待っても邦乃ちゃん全然戻ってこないんだもん……」
忘れてた。
今更だけど、昨日そんなことを言っただろう記憶を思い出す。
しかし、それを最初に言ってくるか?
「だけど、沙里……許すよ♪」
さっきまで怒っていたんじゃないのか? と突っ込みたかったがそこは抑える。
やはり、記憶喪失のせいで子供のような人格になってしまっている。
何故許すのか少し気になったので、その理由を聞いてみることにしてみた。
「なんで俺を許してくれるんだ?」
「えっとね、沙里、邦乃ちゃんのこと、大大、だぁーい、好きだから!!」
そんな子供のようなとても恥かしい言葉をいい、俺に抱きついてきた。
沙里は記憶喪失のため人格が幼くなっているのでおそらく恥ずかしくないんだろうが、俺
は結構やばい。いろいろと、男として。
「わ、わかったから離れろ」
俺の体に張り付いたものを取るように、俺は沙里をどかせた。
すると頬を膨らませて怒り始めた。
「なんで引っ剥がすかなー」
「当たり前だろ」
「あ、もしかして、恥ずかしいの?」
「ぅっ」
なんだか、この沙里はとても相手にしづらい。
一旦退避したほうがいいかもしれない。
「竜芳殿、リビングにおいでください。健矢殿と美亜殿がお待ちになっております」
「あ、はい。わかりました」
――さて、リビングに行くか。
玄関からリビングは扉を一つ通ってすぐそこにある。
俺はその扉へと向かおうとしたが、後ろから引っ張られて立ち止まった。
「……………」
「う〜」
「離して、くれないか?」
「ヤダ」
子供のように頬を膨らませて怒る。
両手で俺の服の袖を引っ張ったまま離さない。
「すぐ、戻ってくるから」
「昨日嘘付いたでしょ」
そう言われると、何ともいえなくなってしまう。
とりあえず、健矢と美亜に話があるというのに……これじゃダメだ。
「き、昨日はすまなかった。だから……今日は必ず戻ってくるから」
「本当にー?」
「本当だ」
沙里は少し考え込むと、落ち着いた表情になっていた。
「じゃあ……わかった。そのかわり、絶対帰らないでね?」
「ああ。それじゃ、自分の部屋で待ってろ」
そうして俺はやっと自由を手に入れたのだった……
「おはよう」
リビングに入ってみると、ソファーに健矢と美亜が座って待っていた。
「よ、竜芳」
と、片手を軽く挙げていつものように俺に挨拶をする。
すると美亜は少し不思議そうに俺を見た。
「竜芳くん……利緒ちゃんは? 今日は一緒じゃないの?」
そういえば、忘れていた。
携帯電話をポケットから取り出すと、すぐに利緒にメールを送信してみた。
「メール送ったから、多分大丈夫だろ」
俺もソファーに腰を下ろす。
「それで、元に戻す方法は見つかったのか?」
「ううん……それが、全く見つからなかったの」
まあ、それもそうか。
一日で記憶を取り戻す方法が見つかれば、結構凄い。
「竜芳殿……」
情秀さんが恐る恐るそのリビングに入ってきて俺たちの方まで歩いてきた。
「やはり沙里お嬢様はあのままがよろしいかと、あなたとお嬢様が話しているところを見
るととても幸せそうで……なので、私は――」
「そんな!」
そんな情秀さんの言葉に驚いたのは美亜だった。
「今のままがいいだなんて……それじゃあ私たちと過ごしてきた彼女はどうなるんです?
私は、あんな沙里、嫌です」
真剣な美亜の目は、じっと情秀さんを見ていた。
美亜自身を見ても、その雰囲気でどれくらい本気なのかわかる。
「それはわかんねえよ。美亜」
「……それは、どういうこと?」
健矢は辛そうな顔をして、ただソファーの目の前にあるテーブルだけを見て話した。
「お前、竜芳が来る前に情秀さんに聞いたろ? 沙里は自ら心を閉ざしたんだ。それは死
にたいくらい辛いことがあったから。それで、記憶を戻して、沙里はまた辛い思いをする
かもしれないんだぞ? とても辛い現実が待ち構えているんだぞ?」
「わかってるわよ、そんなこと!! それでも、私は――」
俺だって、元に戻してあげたい。
そんなの、誰だって思うはずだ。
記憶を戻すことを否定した、健矢も情秀さんも……
だけど、それは本当に沙里のためになるのか?
どっちが、沙里のためになるんだ……?
大人しくて思いやりがあるお嬢さまの沙里。
子供っぽくて幼い、無邪気な沙里。
俺は――
「記憶を、元に戻そう」
俺は自然とそんなことを言っていた。
みんな驚いた目でこちらを見ている。
「戻して、沙里自身に言ってやる……逃げるな、って」
「だけど、記憶を戻す方法は――」
「ある。心を閉ざしているのならば、無理やり開ける。それだけだ」
心の中で決心した俺は、沙里のいる部屋へと向かった。
その後ろに、美亜たちも続いていった。
「沙里」
部屋のドアをあけるなり、沙里は喜んだ様子でこちらへ駆け寄ってきた。
「戻ってきてくれたんだね、邦乃ちゃん♪」
「目を覚ませ、沙里!!」
いきなり大声を出してしまったせいで、沙里は驚いていた。
けれど、俺はそれを無視して説得を続けた。
「心を開いて、俺の話を聞いてくれ!」
「え……? う、っ――」
沙里は頭を抑えて呻いていた。
効果があったようだ――俺は構わず続ける。
「逃げるな。目の前の現実が辛いときだって、誰にでもある。それでも、逃げちゃいけな
い……それは生きているからだ」
「い、きて……る?」
頭をおさえて苦しみながらも、沙里は俺の話を聞いてくれているようだ。
「そうだ。生きてるから、辛い。でも、楽しいことや嬉しいことが感じられる。俺たちと
の記憶は、楽しいことや嬉しいことだけじゃなかっただろう? 辛いことだってあったは
ずだ」
「ぅぅっ」
「お前はお前だ、沙里。逃げるな、現実から……苦しかったら、人に頼ればいい。悲しか
ったら、人に泣きつけばいい。何でもかんでも、自分で背負ったら、いつかパンクするぞ」
「竜芳、さん……竜芳さん!!」
どうやら元に戻ったらしい。ちゃんと俺の名前を呼んでくれている。
すると瞳に涙を浮かべて俺の胸をわし掴んできた。
そして、泣いた。
「わたし、逃げてた……辛かったから、逃げてた……いつもそう。辛いことから逃げて、
それで後悔する……でも、人に頼ることを知らない私は……」
「もういい、沙里。お前には、頼れる人が沢山いるだろう」
「……はい」
しばらく泣いていた。
そして泣き止むと、目は赤いがいつもの沙里に戻っていた。
「ありがとうございます、竜芳さん――ちょっと利緒さんに謝らなきゃいけないですね。
竜芳さんの胸を借りて泣いてしまったから」
「な、なんだそれ!?」
「ふふふっ、本当にありがとうございます……」
そうして、沙里の記憶は戻った。
全ては収まった、というわけではないけれど……
俺は、まだ胸騒ぎがする。
また何かが始まろうと――動き出そうとしていることがわかった。
夢が、終わりに近づいている……
続く
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