『記憶』
――夢。
俺は二日ぶりに夢を見た。
今度の夢は一人の女の子が部屋のベッドでうずくまって泣いている。
「お父様……お父様っ」
よく見ると、その泣いている女の子は沙里だった。
何故か沙里が、自分の部屋で泣いている。
「なんで、わたしを置いていなくなったの……もう、会えないのっ」
涙をたくさん流して、震える声で何かに問いかけるように話していた。
なんだか知らないが、とても不吉な予感がした。
もしかしたら、沙里の父が死んだ? ――そんなの、夢にもほどがある。
何か声をかけてあげたいと思ったが、これは見せられている夢だ。
自分の意思で体を動かそうと思っても、全く動かず、声も出ない。
ただなす術なく、そんな辛い光景を見ることしか出来ないのだ。
「……………」
すると、突然泣く声がやみ、沙里を見てみるとうずくまったまま寝ていた。
泣きつかれたのだろうか? まるで赤ん坊みたいだな……
そんなことを思っているうちに、再び沙里は目を開けた。
とても早い起床――それならいい。
彼女は、次にとんでもない一言を口に出した。
「わたし、誰……? 何なの?」
四月五日、午前十時。
「竜芳ー、起きなさーい!! 電話よー」
一階からの大きな母親の声で、夢は途中で切れてしまった。
現実に意識が戻った俺は、背筋を伸ばして欠伸をする。
「早くしなさーい!!」
「わかったって!!」
寝起きにそんなこといわれても困るのが普通だと思いたい。
誰から電話だろう。そんなことを気にしつつ、俺は一階へと早足でおりて行った。
居間にある電話をとる。
「はい、竜芳ですが――」
「竜芳殿、おはようございます」
と、落ち着いた様子で電話に出てきたのは沙里の家の執事、情秀さんだった。
なんで情秀さん何かが、俺に用事……?
「どうしたんですか?」
「至急こちらまで来ていただけないでしょうか? ――美亜殿と健矢殿にも連絡は取りま
したので、よろしくお願いします」
少し早口で情秀さんは言い、すぐに電話を切られた。
頭がぼーっとしているせいでその重要さが、まだわからない。
「とりあえず、利緒に連絡するか……」
自分の部屋に戻ると、携帯電話を手に取り利緒にメールを送った。
沙里の家へ向かうように、そう送ると、俺はすぐに服を着替えて外へと駆け出した。
――何か胸騒ぎがする。
とりあえずは体力の限り、沙里の家まで走ることにした。
家から沙里の家までは、1キロメートルぐらい距離があるので、途中でばててしまった。
立ち止まって呼吸を整える。
「っ、はぁ……すぅーっ、はぁー……――夢。そうだ……まさか」
今日見た夢を思い出す。
沙里が一人、部屋で泣き、そして泣き止んだ沙里が言った一言……
「わたし、誰……? 何なの?」
普通に考えれば、記憶がとんだ……もしかしたら、今日見た夢は、現実だったのか?
正夢……もしそうだとしたら、沙里は今頃……
「竜芳!」
立ち止まって考え事をしているときに、利緒が後ろからやってきた。
俺がメールをあげたから、多分沙里の家へと向かっていた途中で俺を見つけたのだろう。
「沙里、どうしたの?」
不安そうな表情をした利緒は、俺の目を見つめて言った。
とはいえ、まだ確定のしないことをいっても駄目だ。
「わからない。とりあえず沙里の家に行こう」
まずは、目で見て確かめなければいけない。
俺と利緒は走って沙里の家へと向かった。
今日は門が最初から開いていた。
閉める暇もない、ということなのだろうか?
門をくぐり、玄関へと利緒と共に駆ける。
玄関で出迎えてくれたのは、佐縒さんだった。
やはり、慌てた様子が見られる。
「竜芳様、利緒様、早く沙里お嬢様の部屋に向かってくださいな!」
「は、はい!」
そんな佐縒さんは初めて見た。とても焦っている……
ますます不安が募り、靴を玄関へ放り投げるとお客さま専用のスリッパへと履き替えて走
りづらいけれども走ることにした。
階段を登って右の通路に沙里の部屋はある。
その部屋の扉が開かれていて、健矢と美亜が深刻そうな顔をしてその部屋を覗き込んでい
た。
「健矢、美亜――どうしたんだ?」
「あ、竜芳くんと利緒ちゃん……」
俺と利緒もその部屋の前へと向かう。
そしてその部屋を覗き込んでみると、情秀さんが必死に沙里に話しかけていた。
「あなた、誰?」
「私です! あなたの執事の情秀でございます!!」
「……知らないもん」
やはり、夢の通りだった。あの夢は現実だったのだ。
しかし、何故あんな夢を見せられたのか……自分の意思で見ているわけじゃない。
もしかしたら、誰かが俺にそんな夢を見せているのかもしれない。
「竜芳……沙里のやつ、オレや美亜のことも、覚えてねえんだ」
辛そうに、健矢は部屋の中にいる沙里を見ながら言った。
俺のことも忘れてしまったのだろうか?
そんなことを思いつつ、俺は沙里の部屋の中へと入ってみた。
やっぱり俺のことなんて、覚えていないだろう……
不安を胸に抱きつつ、俺は沙里へと歩み寄った。
「……………」
「邦乃ちゃん?」
「は?」
邦乃(ホウノ)ちゃんって、誰……?
しかも、俺を見ながら言ったのだから、おそらくその邦乃ちゃんとやらは俺のことらしい。
なんだか変な気分だ。自分を自分じゃない名前で呼ばれるのは――
「邦乃ちゃん、久しぶりだね〜。元気だった?」
「あ、えっと……その」
いきなりの問い掛けに戸惑っているとき、美亜が後ろから小声で助けてくれた。
「とりあえず、その人の振りをして。お願い」
何だかわからないけれど、俺はベッドの上に座り込んでいる沙里と同じ目線になるように
しゃがんだ。
「元気だったよ」
「そう――よかったぁ」
と、無邪気に笑う沙里。何だかいつもの沙里とは違う様子だった。
何処か違和感がある……子供のような沙里。
「竜芳殿……ちょっとよろしいですかね?」
情秀さんが部屋の外に出て手招きをしてきた。俺は部屋の外に出ようとしたが、沙里が洋
服の袖を引っ張っていた。
「いっちゃヤダ!!」
「ぅ……えっと、すぐ戻ってくるから、ね?」
「じゃあ、戻ってきたら遊んでくれる?」
「ああ。だからちゃんと待ってるんだぞ」
すんなりと服の袖を離してくれた。
俺はとりあえず部屋の外に出ることにした。
「何なんですか、情秀さん。邦乃ちゃんって」
沙里を一人部屋に残して俺は部屋を出るなり情秀さんに質問した。
みんな、それぞれ疑問に思っているだろう。
「なんで沙里がこんな風になったか、その理由と、今のことを教えてください」
美亜が真剣な表情で情秀さんに歩み寄る。
いつもの美亜とはまた違う雰囲気を出していた。
それくらい、親友である沙里の身が心配なのだろう。
「そうですなぁ……まずは、そうなってしまった理由から話しましょう――おそらく、昨
日来た通知を見てショックを受けて記憶が飛んだのかと思います」
「ショック……?」
利緒が不思議そうな顔をして、頭を傾げた。
「昨日、沙里お嬢様の父上が亡くなった、との通知が来たのです」
「な、なにっ!? そりゃホントかよ!!」
情秀さんの言葉に、健矢は耳を疑うほど驚きを露にして見せた。
信じられない、といったように美亜も目を見開いていた。
利緒はというと、とても辛そうな顔をしていた……
それぞれ、何を思っているかはわからない。
けれど、それで夢の中で起きたことは現実だということがはっきりと証明された。
父の死を知り、悲しんでいた沙里。
そのショックで記憶がなくなり、自分が誰だかもわからない……そんな状態。
「なら、邦乃ちゃんって誰ですか?」
一人冷静を保っているであろう自分が、情秀さんに問い詰めた。
「邦乃殿は昔、沙里様とよく遊んでいた男の子です……おそらく、竜芳殿の面影とその邦
乃殿の面影が一致して、唯一残っていた記憶が蘇った、のでしょうな」
もしかしたら、それだけが彼女の記憶を取り戻す鍵かもしれない。
たった一つだけ、というのが厳しいが……
「その記憶を元に、他の記憶を元に戻す、ということはできないのですか?」
「……そこのところはよくわかりませんのです」
「そう、ですか……」
とはいえ、それしかないだろう。
そこの記憶だけしかないのならば、あとは何をやっても無駄、ということになるだろう。
「竜芳……どうするの?」
考えに耽っていた俺の服の袖を利緒は引っ張った。
そのおかげでふと、すぐに現実に引き戻された感じがした。
「あ、ああ……なんとか、いい方法はないか……」
「やっぱ、竜芳――っていうか、その邦乃ってやつしか覚えてないんだから、そこからど
うにかしなきゃいけねえんじゃねえのか?」
顎に指を添えて、真剣に考える健矢が床を見ながら俺に言った。
やはり、それしか方法はないようだ。
「……だけど、必ず沙里の記憶が戻る、ってわけじゃないんでしょ?」
「そう、だな……」
思いつきの考えが、そう簡単に上手く行くわけもない。
ならば、じっくりと考えなければいけないのだろうか?
「皆様、今日はもうお引取り願えますかね? ……少々、沙里様をそっとしておいてあげ
てください」
情秀さんは申し訳なさそうに俺たちに頭を深々と下げた。
俺も頭を下げて、情秀さんに返事を返した。
「はい……明日、また来ます」
「……竜芳殿は少し残ってくれますかね」
「は、はあ」
いきなりの指名で驚いたが、おそらく沙里についての話だろう。
なので俺は正直にそのままみんなを家に帰して残ることにした。
「竜芳くん、明日までになんか方法探しておくね」
「オレも、何か探しておくわ」
「竜芳……また、明日」
美亜、健矢、利緒の三人を見送った俺と情秀さんと差縒さん。
三人の気配がいなくなると、俺は佐縒さんに手を取られてそのままこの家のリビングへと
向かわされた。
「ご自由にお掛けになって」
「は、はい」
佐縒さんにそういわれたので、俺はリビングにあるソファーに座ることにした。
その目の前に、情秀さんと佐縒さんが座る。
とてつもない緊張感が漂う……
「話があるんですか?」
「もう少し、補足説明をしておきたいと思いまして――そんなに時間はとりません。いい
ですかな?」
「はい、もちろんです」
何を話されるか知らないが、こんなところで話すのだからとても大切な話だろう。
それに、記憶を失った沙里に関係のある話……
「邦乃殿と沙里お嬢様が遊んでたのは今から十年ぐらい前の話です。そのせいか竜芳殿も
見ての通り、少しばかり子供のようになっています……おそらく、そこの記憶しかのこっ
ていないため、精神の年齢がそこの記憶に合うようになっているのでしょう」
その話はとても頷ける話だ。確かに、沙里は何時もと違う雰囲気を出していた。それに、
とても子供のようだった。十年ぐらい前、といったら小学校に入る前だ。おそらく五、六
歳だろう。
「沙里お嬢様は、悲しみのあまり自分の心を閉ざしてしまったのでしょう。唯一の血の繋
がった肉親が死んでしまった現実から逃げるため、沙里お嬢様は記憶を消した――のかも
しれません。そう考えることもできます」
「心を閉ざして、記憶を消した……?」
出来るのだろうか、そんなこと。
けれど、人間の精神が不安定になると体に被害が及ぶ事だってある。
だから記憶が消える事だっておかしなことではないのだ。十分にありえる。
――なら、記憶を元に戻すのは、いいことなのだろうか?
「このままにしておけば、沙里お嬢様は悲しむこともないでしょう……けれど、父親の死
を受け入れないまま、本当の沙里お嬢様は消えてしまうのです」
「そ、それは本当なんですか!?」
情秀さんは、ただ一回深く頷いた。
辛く悲しい現実から逃れるため、沙里は心を閉ざした。
今のままだったら、確かに父親の死という悲しみはないだろう。
記憶を戻してあげることが、彼女にとっていいことなのだろうか?
それとも、記憶を戻さずにそっとしておいてあげることがいいことなのだろうか?
どっちだ――。
「すみません、竜芳殿……あなただけが頼りなのです」
唯一、俺――実際には邦乃――を覚えている。
なんとかすれば、記憶は元に戻る。しかし、俺は悩んでいた。
「一日、考えさせてください。少し、心の整理が必要です」
「そうですね。少し、内容がハードすぎるものね」
俺が席と立つと佐縒さんも立ち上がり、玄関まで見送ってくれた。
俺はそれから、家に帰り悩んだ。
沙里にとって何が一番いいのか……
明日、決める。
続く
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